過去の研究紹介[1995~2008]

『脳のナトリウムセンサー』

過去の研究紹介[1986~1992]ではオリゴデンドロサイト、過去の研究紹介[1992~1995]ではアストロサイトによる脳の可塑性制御についてご紹介しました。ここでは渡辺が1995年から2008年にかけて野田昌晴教授が主宰されている統合神経生物学部門と共同でおこなっていた『脳のナトリウムセンサー』に関する研究をご紹介いたします。

オリゴデンドロサイトの従来の役割は、神経情報の伝導路である軸索の絶縁にあります。アストロサイトの従来の役割は、神経細胞へエネルギーなどの供給にあります。しかし、これらグリア細胞の役割は、そうした従来の常識を覆す脳の可塑性の制御にもあったのです。

グリア細胞の役割は、それだけに留まりません。
どうやらもっと凄い働きが隠されているようです。

それは神経細胞の活動の制御です。
このとても重要な機能は脳のナトリウムセンサーの研究から明らかになってきました。

脳のナトリウムセンサーの研究を順々に追いかけてみます。


Naxチャンネルの構造

Naxナトリウムチャンネルは、推定アミノ酸配列から6つの膜貫通セグメントを一つのドメインとした4つのドメインから構成されています(上図参照)。


ナトリウムチャンネルの系統樹

これは電位依存性ナトリウムチャンネルのドメイン構成と同じであり、アミノ酸配列も約50%の相同性が認められるため、クローニングされた当時は電位依存性ナトリウムチャンネルの一種であると考えられていました(上図の系統樹を参照)。

ところが、他の電位依存性ナトリウムチャンネルがほぼ100%保存している電位センサー領域(セグメント4)のアミノ酸配列が大きく異なることや、培養細胞系でチャンネルタンパク質を発現させても電位依存性のチャンネル活性が観察されないことから、機能未知のナトリウムチャンネルとされました。そこで、私たちは遺伝子欠損マウスを作製して、Naxナトリウムチャンネルの生体における機能の解析に着手しました。



脳室周囲器官。SFO,OVLT,NHP,APの脳室周囲器官の内、
NaxはAP以外の部位に強く発現している。

LacZリポーター遺伝子をNax遺伝子にノックインしたマウスを作製して、Naxの中枢神経系での分布を解析したところ、脳室周囲器官(Circumventricular Organs: 上図)と呼ばれる部位(特にSFOとOVLTとNHP)に強く発現していることが判明しました。


脳室周囲器官の模式図。

これらの部位は、いわゆる「脳血液関門」が存在しない特殊な中枢器官で、脳脊髄液や血液中のナトリウム濃度・浸透圧を検出して、動物の塩分や水分の摂取行動をコントロールしている脳内感覚器であると考えられています(上図参照)。


Nax遺伝子欠損マウスの行動解析(2瓶法)。マウスに塩水と真水の二本の飲水瓶を提示し、その飲水量を比較する。実験では動物を24時間の絶水状況にし、その前後での飲水状況を比較した。白棒が絶水前、黒棒が絶水後。左のグラフでは塩水を飲んだ比率を示した。野生型マウス(+/+)やヘテロマウス(+/-)は、絶水後は塩水を飲むのを避けたが、Nax遺伝子欠損マウス(-/-)は絶水前と変わることなく塩水を飲み続けた。右のグラフは2瓶合わせた総飲水量。絶水後の爆発的に飲水量が増えているが、この量はNax遺伝子欠損マウスでも変わらない。

Nax遺伝子欠損マウスで行動解析テストを行ったところ、Nax遺伝子が欠損したマウスでは、野生型マウスに較べて過剰な塩分の摂取が観察されました(上図参照)。またこのとき、遺伝子ノックアウトマウスの脳室周囲器官の神経細胞活動レベルは、野生型マウスに比較して過剰になっていることが判明しました。すなわち、Naxナトリウムチャンネルは、塩分の摂取行動の制御に関与していることが示唆されました。


ナトリウムイオンイメージング。SBFIという蛍光指示薬によって細胞内のナトリウム濃度を測定することができる。ナトリウム濃度は疑似カラーによって表示している(青色が低い濃度、赤色が高い濃度を示す)。野生型マウス由来の細胞は細胞外ナトリウム濃度を145mM(等張)から170mM(高張)に上昇させると細胞内へナトリウムイオンを通過させたが、Nax遺伝子欠損マウスはそのような活性が欠失していた(左)。Nax遺伝子欠損マウスの細胞に緑色蛍光タンパク質と共にNax遺伝子を導入するとその活性が復活した(右)。以上の実験からNaxチャンネルは、細胞外ナトリウムの上昇に応答して開口するナトリウム依存性ナトリウムチャンネルと判明した。

さらにイオンイメージング解析を進めると、Naxチャンネルは、細胞外ナトリウムの上昇に応答して開口するナトリウム依存性ナトリウムチャンネルと判明しました。すなわちNax遺伝子欠損マウスで観察された塩水の過剰摂取行動は、脳で働いているナトリウムセンサーの欠失によるものであることが明らかになったのです。一連の研究は世界初のナトリウムセンサー型のナトリウムチャンネルの発見に繋がったのです。


Naxチャンネルの免疫電顕像。神経細胞(N)と神経細胞に挟まれた細長い細胞のプロセスがNax陽性になっている。これがグリア細胞の一種である上衣細胞(E)である。

しかし、本当に驚くべき発見はここからです。その知見はNaxの発現の詳細を電子顕微鏡によって解析しているときにもたらされました。ナトリウムチャンネルは一般的に神経細胞に発現しています。それはナトリウムイオンが神経細胞の電気的活動の主役を担っているからです。ところが、Naxチャンネルは、なんと電気的活性のないグリア細胞(アストロサイトと上衣細胞)に発現していたのです。となると、ナトリウムセンサーとしての役割を担っているのは神経細胞ではなく、グリア細胞ということになります。

グリア細胞が体液ナトリウム濃度の一次センサー細胞であるという研究結果は、非常に重要な意味を持ちます。これまで見いだされていた感覚細胞は、化学シナプスによってシグナルを伝える神経細胞タイプのものばかりでした。ところがグリア細胞が感覚細胞としての働きがあり、この受け取った感覚情報を神経細胞に伝えることが出来るとなると、これまでのグリア細胞の概念が大きく変わることになります。

しかしながら、ここで大きな疑問が出てきます。そうです。Nax遺伝子欠損マウスでは、塩分摂取という動物の行動に変化で観察されています。動物の行動に変化があるということは、神経細胞の電気的な活動に変化があったということです。しかしNaxが発現しているのはグリア細胞です。グリア細胞は、どのようにして神経細胞の電気的活動に影響を与えたのでしょうか?


乳酸仮説。

そのヒントは、丹念な分子クローニングの実験からもたらされました。NaxとNaKポンプ(Na+/K+ATPase)と相互作用していたのです。Naxの活性化はNaKポンプの強烈な活性化をもたらし、これによってグリア細胞内へのグルコースの流入を促進、さらにはグルコースの代謝産物であるラクテイト(乳酸)の神経細胞への供給を制御していることが分かってきました(ラクテイト仮説)。つまり、グリア細胞の最も主要な役割と考えられていた神経細胞へのエネルギー(乳酸)の供給を通じてグリア細胞は神経細胞の活動をコントロールしていたのです。この発見によって、血管中のナトリウムからグリア細胞、そして神経細胞への情報伝達の仕組みが明らかになりました。

では、この発見は体液ナトリウム濃度の受容という特殊な感覚だけにとどまる話でなのしょうか?それはまだまだ分かりません。しかしながら、体液中(血液中)には、ナトリウム以外にも生体にとって重要な情報分子が数多く流れています。ホルモンと呼ばれている生理活性ペプチドがその代表例で、生理活性ペプチドは各臓器の働きをコントロールするだけではなく、脳の活動に多大なる影響力を持つと言われています。ところが血液と脳(神経細胞)とは脳血液関門で遮断されているため、生理活性ペプチドは直接神経細胞に接触することがありません。では生理活性ペプチドの情報は、どのようにして神経細胞に伝わるのでしょうか?

私たちは、それがグリア細胞の役割ではないかと考えています。グリア細胞は、ナトリウムだけではなく、各種受容体を通じて、体内の情報を血流を通じてたくみに神経細胞に伝えているのではないのでしょうか。血管は脳中に張り巡らされており、また同時にグリア細胞ネットワークも脳中に張り巡らされているので、このシステムを使えば生理活性ペプチドの情報を、脳の広範囲に一気に伝えることができます。神経細胞のように軸索やシナプスを持たないグリア細胞は、ピンポイントで情報を伝えるのは苦手かもしれませんが、脳のモードを大規模に変調させるには有利な性質を持っているのです。

今後、乳酸仮説の検証が待たれます。


【参考文献】
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This paper is selected as the featured article of NEURON.


Shimizu, H., Watanabe, E., Hiyama, T.Y., Nagakura, A., Fujikawa, A., Okado, H., Yanagawa, Y., Obata, K., and Noda, M., Glial Nax channels control lactate signaling to neurons for brain [Na+] sensing, Neuron  54, 59-72 (2007)
This paper is selected as the featured article of NEURON.
This paper is selected as the Editors' Choice of Science's STKE.

Watanabe, E., Hiyama, T.Y., Shimizu, H., Kodama, R., Hayashi, N., Miyata, S., Yanagawa, Y., Obata, K., and Noda, M., Sodium-level-sensitive sodium channel Nax is expressed in glial laminate processes in the sensory circumventricular organs, American Journal of Physiology 290, R568-R576 (2006)
This paper is selected as a 'Must read' paper by Faculty of 1000 (selected by Dr. Alastair Ferguson).


Niisato, K., Fujikawa, A., Komai, S., Shintani, T., Watanabe, E., Sakaguchi, G., Katsuura, G., Manabe, T. and Noda, M., Age-dependent enhancement of hippocampal LTP and impairment of spatial learning through the ROCK pathway in protein tyrosine phosphatase receptor type Z-deficient mice, Journal of Neuroscience 25, 1081-1088 (2005)


Hiyama, T.Y., Watanabe, E., Okado, H. and Noda, M., The subfornical organ is the primary locus of sodium-level sensing by Nax sodium channels for the control of salt-intake behavior, Journal of Neuroscience 24, 9276-9281 (2004)
This paper is selected as a 'Recommended' paper by Faculty of 1000 (selected by Dr. Stephan Roper).


Watanabe, U., Shimura, T., Sako, N., Kitagawa, J., Shingai, T. Watanabe, E., Noda, M. and Yamamoto, T., A comparison of voluntary salt-intake behavior in Nax-gene deficient and wild-type mice with reference to peripheral taste inputs, Brain Research 967, 247-256 (2003)


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Hiyama, T.Y., Watanabe, E., Ono, K., Inenaga, K., Tamkun, M.M., Yoshida, S. and Noda, M., Nax channel involved in CNS sodium-level sensing, Nature Neuroscience 5, 511-512 (2002)


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Shintani, T., Watanabe, E., Maeda, N. and Noda, M., Neurons as well as astrocytes express proteoglycan-type protein tyrosine phosphatase-zeta/RRTP-beta Analysis of mice in which the PTP-zeta/RRTP-beta gene was replaced with the lacZ gene, Neuroscience Letters 247,135-138 (1998)



【視覚研究へ】
オリゴデンドロサイトの抑制作用。アストロサイトの神経可塑性への関与。アストロサイトやシュワン細胞や上衣細胞の循環液性情報の伝達。1986年から続いた一連のグリア細胞の研究によって、グリア研究の新たな局面が見えてきました。研究はまだまだ発展段階ですが、渡辺が関与する一連のグリア研究は以上の三部作にて完了です(2008年8月)。一仕事10年です。

脳の研究には、ハードウエアとソフトウエアの2つの側面があります。ハードウエアの側面とは、脳で発現している分子や細胞などの物質の性質に焦点を当てる研究です。ソフトウエアの側面とは、脳で行われている情報処理のアルゴリズムの研究です。これまでの研究では、主としてハードウエアの側面から脳を取り扱ってきました。抑制作用を発揮する分子、神経可塑性に関わる分子、ナトリウムを検出する分子、という具合です。分子の研究は非常に重要な知見を私たちにもたらしてくれましたが、ソフトウエアの側面からのアプローチもとても重要です。

そこで脳研究をさらに深め、知識を広げていくために、新たにソフトウエアとしての脳の研究を推し進めることにしました。キーワードは、視覚、心理物理、メダカ、そしてヒトです。今後はこうした脳のソフトウエアとしての研究を展開していきます。コンセプトは『作ればわかる』です。

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